その他2017.01.27.神楽坂の歴史
閑話有題。今回は事務所のあるここ神楽坂の歴史について。
今の神楽坂通りが整備されたのは、江戸時代と言われています。 寛永5年(1633年)に大老酒井氏が矢来に屋敷地を拝領しました。その後、この酒井家の下屋敷と牛込御門を結ぶ約1kmの道を大老の登城道路として整備し、今の神楽坂の原型ができたそうです。
神楽坂という名前は、この坂で神社が奏でる神楽の音が聞こえたことに由来します。どこの神社の神楽なのかは、若宮八幡神社、筑土八幡神社、赤城神社その他諸説あり定かではありませんが、いろいろなところから神楽が聞こえてくることから神楽坂の名前が定着したようです。
江戸時代、神楽坂駅の南側には若狭小浜藩主酒井家の広大な屋敷地(牛込矢来屋敷)が広がっていました。神楽坂駅を出て、南に歩いていくと矢来町という町名があらわれますがそのあたり一帯が酒井家の下屋敷だったそうです。神楽坂駅から5分ほど歩いたところにある木々に囲まれた緑豊かな矢来公園には小浜藩邸跡と「解体新書」で知られる杉田玄白誕生の碑があります。杉田玄白は小浜藩に仕える医者で、享保18年(1733)にこの牛込屋敷で生まれています。
3代将軍家光の治世下、小浜藩主酒井忠勝は老中・大老職を勤めていましたが、家光は忠勝を大変気に入っており、矢来屋敷を頻繁に訪れました。若狭守もこの屋敷の中に家光好みの庭を造り、屋敷内には小堀遠州作の江戸の名園と謳われる庭があったと言われています。
寛永16年(1639)に江戸城本丸が火事になり、家光はこの酒井家の下屋敷に避難して70日間にわたり逗留しましたが、その時の警護が大変だったそうです。大老は近所の御家人衆を全部集めて、抜き身の槍を持たせて屋敷の周りを囲ませ、夜は松明を焚いて警護したそうです。この竹矢来が評判になって牛込屋敷周辺は「矢来下」と呼ばれるようになりました。
事務所からすぐ近くには、「寺内公園(行元寺跡)」がありますが、そこには鎌倉時代からの天台宗のお寺「行元寺」があったそうです。行元寺は、明治40年(1907)の区画整理の際、品川区西五反田に移転しています。
寺の門前には古くからの町屋「兵庫町」があり、三代将軍家光が鷹狩りに来られるたびに、兵庫町の肴屋が肴を献上したことから「肴町」と呼ばれるようになりました。明治4年(1871)には、行元寺と肴町をあわせて町名「牛込肴町」となりました。現在の神楽坂5丁目界隈です。古地図をみてみると、ちょうど事務所のあるあたりは肴町と書かれています。ここに居を構えていた人が家光公に肴を献上したのかもしれません。
神楽坂界隈は、幕府の武器をつかさどる具足奉行・弓矢鑓奉行組同心の拝領屋敷など、武家地によって占められており、町名にも武家地であったことに由来するものがみうけられます。また、寺社地や町屋等も数多く存在し、風情のある、いわくありげな町名が目を引きます。みなさんも町名から江戸時代はどんな様子だったのかを想像しながら神楽坂の町を散歩してみてはいかがでしょうか。
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